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NOTRE MUSIQUE

Elle est retrouvee.
Quoi? - L'Eternitee.
C'est la mer alleee
Avec le soleil.

Daft Punkダフト・パンクの2001年のアルバム。
1997年にフランスから世界に向けてデビューし、200万枚を売り上げたデビュー作"Homework"が瞬く間に大ヒットを記録し、世界のダンス・シーンを牽引する存在にまで一気に登りつめたクリエイター・チームであるダフト・パンクの人気をダンスフロアを超えて波及させ、その人気を更に不動のものとした大ヒットアルバムである。世紀末を超え、新しい2000年代を迎えるタイミングと彼らのこのアルバムの先行シングル"One more Time"のリリースは同期がとれていて、彼らのアッパーなダンス・ビートは新しい世紀を迎える人類の高揚感を煽った。そして2000年、世界中のどこのクラブでもこの"One more Time"が成り続けたといっても決して過言ではないだろう。
このアルバムでは、全曲のPVを日本人漫画家の松本零士がストーリーごと手がけ、アルバムにはオンラインのファンクラブの会員証が封印されていた。そしてセールス的にも世界で260万枚、日本でも30万枚というクラブミュージックの売り上げでは破格のセールスを記録している。それはもうテクノやハウスといったカテゴライズされた局所的な流行ではなく、十分に大衆性のあるポップミュージックとして多くの人々の気持ちを躍らせていたかということを示している。
独自のエレクトロ・ビートにヴォコーダーを使った彼らのボーカルスタイルは大ブームとなり、その後多くのクラブ系アーティストが用いるようになった。サウンド的には80年代のハウスミュージックを踏襲しているが、ハイブリッドな感性とメロディラインの明快さがエレガントでまったく新しいサウンドを作り出している。そして単にフランスのクラブアーティストが世界レベルのポップミュージックシーンで大ブレイクしたという事実以上に、彼らの最大の功績はダンス・ビートへのヴォコーダー導入による、ポップミュージックとクラブ系のエレクトロ・ビートの融合であるともいえるだろう。21世紀のダンス・ミュージックシーンを最初に示唆したという点でも非常に重要な作品。
Derek & The Dominosエリック・クラプトンが結成したデレク&ドミノズの1971年の名作で上記タイトルに入りきらなかった正式なタイトルは"Layla & Other Assorted Love Song"、邦題は"いとしのレイラ"。
クリーム時代はインプロヴィゼーションの極限まで極め惜しまれつつもクリームを解散させたクラプトンであったが、解散後ブラインド・フェイスを結成するもアルバム1枚で解散。その後アメリカに渡って作ったのがこのドミノズであり、彼の生涯を通しても代表作となったこのアルバムが生まれた。渡米しデラニーアンドボニーのメンバーやレオン・ラッセルといったアメリカ南部のスワンプと呼ばれるロックをやっているアーティストと出会い、彼の音楽性は南部志向へ傾斜。カール・レイドル、ジム・ゴードン、ボビー・ホイットロックらとこのドミノズを結成。結局このドミノズは一年で解散してしまい、残されたのはアルバムはこの一枚のみとなったが、歴史に名を残す名盤となった。
この中からタイトル曲の"いとしのレイラ"が大ヒットを記録しているが、当時クリーム時代のクラプトンのファンたちはその方向転換に相当戸惑った。クラプトンというとクリーム時代の激しいインプロヴィゼーションを繰り広げるスローハンドの異名を持つギターの名手であったが、ここで聴かれるのはそれとは180度方向性が変わった音楽で、どちらかというと曲自身の良さに重みをおいた歌手としてのクラプトンがいた。クリーム解散後にこうしたクリームと正反対の音楽を辿ったということからもクリーム末期にクラプトンの精神状態がひどく落ち込んでいたことがわかる。今でこそクラプトンというとグラミーにも常連で様々なシングルヒットを飛ばすロックスターの大御所となっているが、この当時はジェフ・ベック、ジミー・ペイジと共に3大ギタリストと呼ばれるなど、とにかくギタリストとしてのイメージが強く、このアルバムリリーズ時はクリームファンから批評されたり、賛否両論を巻き起こしたのである。
アルバムの1曲目の"I Looked Away"から南部のゆったりしたオーガニックなサウンドでクリーム時代には聴けなかった自然体のクラプトンサウンドが展開される。2曲目の"Bell Bottom Blues"は今でもステージで演奏される曲で、南部の暖かい雰囲気を感じさせる美しいバラード。コノアルバムは現在はCD一枚に収まっているが、LP時代は2枚に分かれており、2枚目の"Tell The Truth"から"Why Does Love Got To Be So Sad"、ジミ・ヘンドリクスの"Little Wing"と徐々に南部の情景を脱構築させ、そこから新しいクラプトンのロックスピリットが再形成されていく。そしてハイライトはやはりタイトルチューンの"いとしのレイラ"、後に妻となる親友ジョージ・ハリスンの妻に対する恋心と、好きな女に自分を理解して欲しいと懇願する男の悲痛な悲哀を歌った曲である。恋多きクラプトン自身の姿を重ねながらひたすらストレートに自分の気持ちを歌に託しており、辛辣過ぎるそのメッセージからはダイナミックなサウンドとは裏腹に憂鬱さすら感じさせる。クラプトンの音楽の根源には常にブルースがあり、このアルバムでのスワンプロック、その後のレゲエの吸収やアコースティックで繊細なサウンドなど音楽的エレメントは多岐に渡るが、クラプトンの生涯を通してこの一曲だけはブルースもロックというカテゴライズから脱した極めて無垢で純粋な音楽であり絶対無二の歌の存在感に溢れている。また、これだけ円熟と渋みを兼ね揃えた貫禄のあるロックを作っておきながら、このアルバムリリース時、クラプトンがまだ25歳の若者であったということにも驚かされる。
このアルバムではドミノズのメンバーに加えて、全編に渡ってオールマン・ブラザーズのデュアン・オールマンがスライドギターで参加し、クラプトンと見事なギター・アンサンブルを聴かせた事でも大いに話題になった。デュアンのスライドギターがクラプトンの歌心を引き出し、普遍のラブソングを完成させた。ここでのクラプトンよデュアンの出会いは今までロック史上で数回あった奇跡のひとつとも言えるだあろう。クラプトンはその後、この親友デュアン・オールマンを事故で失い、ドミノスは解散、74年にソロ作"461 Ocean Boulevard"で劇的な復活を遂げるまで、ヘロイン中毒で音楽活動から退いている。
Marisa Monteマリーザ・モンチの2000年のアルバムで、上記タイトル欄に収まらなかった正式タイトルは"Memories Chronicles And Declarations Of Love"。
今やブラジルを代表するアーティストともいえるマリーザ・モンチは1967年生まれで、幼い頃から唄うことが大好きだったマリーザ1985年、18歳の時に映画Topclipのサウンド・トラックの一曲、サバド・ア・ノイテSabado a Noite(サタデー・ナイト)で静かなデビューを果たしている。当初はイタリア音楽を志していたが、ブラジルへの情景を捨てられず、ブラジル音楽を中心に様々なサウンドをミックスさせることに注力していく。
その後、1989年に正式デビューを果たしているが、なんとデビュー作にして何とライヴ・アルバムという、レコード会社としても新人としては異例の扱いで衝撃的なデビューを果たした。このデビュー盤で新人らしからぬ確かな実力を見せつけ、説得力のある彼女の歌声は世界を魅了した。そして彼女が歌手ではなくアーティストとして大きく成長するきっかけとなったのは次作の"MAIS"からプロデュースを担当するアート・リンゼイの影響が大きい。
このセカンドアルバムは、デビュー作のライヴ盤でマリーザに惚れ込んだアート・リンゼイがプロデュースを引き受け、さらにアートの人脈で、ジョン・ゾーンや坂本龍一までもが参加。初のスタジオ盤ということで、彼女の歌声もより落ち着いた説得力のあるもので、カエターノ・ヴェローゾやサンバのカルトーラのカバーをも披露。アートの斬新なアレンジで彼女がただのブラジル伝統音楽の枠に収まらないアーティストであることを見事に証明している。
その後もアートとのコラボレーションは続き、今日現在の最新アルバムである2000年のこのアルバムではアートとともに彼女自身もセルフプロデュースとして参加。デビュー当時のブラジル音楽に対する硬派なアプローチも良い意味で薄れ、ポップな感覚とオリジナル曲の抜群のクオリティとその美しい歌声で彼女ならではのサウンドを聴かせてくれる。ピーター・シェラーやジョーイ・バロンも参加し、ジョアン・ドナートのピアノだけをバックに歌う"Abololo"、ジャキス・モレレンバウムが参加したパウリーニョ・ダ・ヴィオラのカヴァー "Para Ver As Meninas" などの貫禄たっぷりの彼女の歌唱は特筆すべきクオリティの高さを持っている。全体的にブラジル色というよりも大人びたアコースティックでオーガニックな雰囲気に覆われていて、ロマティシズム溢れたそのサウンドと歌声は、夢見心地にさせるほど和ませてもくれる。様々なアイデアを自分色に染め上げた彼女のオリジナリティはアートとの5作目にあたる本作で完成されたといえるだろう。ブラジル音楽という枠を超越した上質のポップアルバム、文句なしに傑作。
Jimmy Cliffジミー・クリフの手がけた1972年の同名映画のサウンドトラック盤。
白人のジャマイカ人のペリーヘンツェルンという映画監督によるこの作品は、当時のジャマイカのレコード業界とスラム街を舞台にジャマイカの貧困な現実や夜会的な矛盾を描いた作品で、このジミー・クリフ自身が主演を務めた。映画のなかでもクリフは、歌手になることを夢見てキングストンにやってきてヒットを飛ばしスターになるが、そんな成功とは裏腹に警察に終われる身となり、最後には射撃されるという悲劇のスターを演じている。そしてこの彼の演じたスターの姿はクラプトンのカバーした"I Shot The Cherif"のイメージとも重なり、レゲエという音楽を現行体制に反抗する民衆のパワーの象徴というようなイメージを植えつけることにもなった。
このジミー・クリフは60年代からレゲエの老舗レーベルであるトロージャンレコードから何作かのアルバムをリリースしており、69年には"Wonderfull World"や"Beautifull People"といったヒット曲をアメリカでもヒットさせている。シンガーソングライターとしての確かな実力と美しい歌声はジャマイカを越えて世界でも愛されるべきクオリティーがあった。特に彼の"Many Rivers To Cross"の曲の良さと歌唱は特筆に価する。このアルバムでは他にも大物レゲエアーティストのToots&MatalsやSlickersらの曲も収録されていて、とにかく捨て曲なしのオムニバスアルバムとしても非常に完成度が高い。
70年代から80年代にかけてBob Marleyの成功と合わせて、レゲエという音楽がジャマイカから世界的に向けて波及していくが、その大きな契機となったのがこの映画とサウンドトラックだった。ジャマイカ以外のロックファンたちはこの映画によってレゲエとはなにかということを知り、それがジャマイカという国の民族音楽から派生した音楽であるという歴史的な背景を知った。
それを裏付けるかのように、このアルバムに収録された名曲の数々は80年代にロバート・パーマー、リンダ・ロンシュタットという時代を象徴する人気アーティストにカバーされた。レゲエの影響力と、ジャマイカのアーティスト意外が演奏しても素晴らしいほど優れた音楽であることが証明されたのである。そして主役のジミー・クリフはレゲエを代表するアーティストとして人気の上昇と合わせて大きく成長し、その後はレゲエという枠を外し、ソウルアーティストとして広義の意味で質の高いブラックミュージックを作り続けている。
King Crimsonキング・クリムゾンの1969年のアルバムで邦題は"クリムゾン・キングの宮殿"。
プログレッシブ・ロックという枠の中だけではなくロック史に残る大傑作。当時ヒットランキングの一位だったビートルズの"Abbey Road"を追い抜いて一位となったアルバムで、彼らの代表作でありデビュー作にあたるアルバムである。メンバーはロバート・フィリップ(G)、イアン・マクドナルド(Fl,Cl)、グレッグ・レイク(Vo,B)、マイケル・ジャイルズ(Ds)という構成。またピート・シンフィールドの作る文学的な歌詞も彼らのサウンドを大きく決定付けるほど重要なものであった。
アルバムの1曲目の"21st Century Schizoid Man / Mirrors(21世紀の精神異常者)"は20世紀という戦争と革命の時代に絶望し、次の21世紀も明るい未来を期待できず精神異常者になるしかないということを歌った極めてシュールな内容で、ホーンを含めた重厚なサウンドで格調高く仕上げている。そして2曲目の"Talk To The Wind"は1曲目とは一転してスケールの大きい壮大なバラードで、イアン・マクドナルドの怪しくも澄んだフルートの音色が印象的なナンバーで、バッハのフーガの技法を元に作られている。3曲目のEpitaph(墓碑銘)も「混乱こそ我が墓碑銘」というシアトニカルな歌詞をドラマチックに盛り上げるグレッグ・レイクのボーカルが素晴らしく、後のEL&Pでの才気溢れる歌唱をを連想させる。その他すべての曲とアルバム全体の構成は練りに練られており、そのサウンドの一貫性はすでにこのデビューアルバムで完成されている。そして同じく傑作アルバムの名高い"ポセイドンのめざめ(In The Wake Of Poseidon)"などはすべてこのアルバムの延長線上にあるといってよいだろう。
キング・クリムゾンは1973年以後はこのアルバム時のオリジナルメンバーはロバート・フィリップしか残っていない。この大幅なメンバーチェンジを境にサウンドは変わっていくが、ロバート・フィリップの持っているサウンドコンセプトは変わっていない。ロックやポップなどあまたの歌詞が恋愛をテーマにしたものであったのに対し、極めて文学的で暗く不気味な表現を使いながらに美しいクリムゾンのインテリジェンスなサウンドは当時の音楽シーンに大きな衝撃を与えた。ビートルズを生んだイギリスからその後多様化の一途を辿ることになる70年代のロックに向けて新たなサウンドを提示したという点で記念すべきアルバムでもある。
Gato Barbieri -  El Pamperoガトー・バルビエリの1971年、スイス・モントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブ盤。
ガトー・バルビエルは1972年のベルトリッチの映画"Last Tango in Paris"のサントラを手がけたことで有名なサックス奏者であり、また日本ではかなり人気があったわりに、今となっては二流ミュージシャンとしてしか評価されないジャズミュージシャンのひとりである。
ガトーは1934年にアルゼンチンで生まれる。63年にドン・チェリーと出会い、デビューのキッカケを掴むが、デビュー当初はアルバート・アイラーと入れ替わりに誕生したという歴史的偶然も重なり、フリージャズ的なプレイを得意としていた。彼の音楽的な転機となったのがチャーリー・ヘイデンのLiberation Music Orchestraへの参加で、このバンドの経験によって彼のナショナリズムは触発され、南米アルゼンチン生まれであることを自覚し、ラテンの要素を大胆に取り入れたジャズを演奏するようになった。また70年代に入って組むようになったフライング・ダッチマンのプロデューサーであるボブ・シールとの相性も良く、彼の手によってガトーのその胡散臭い魅力はフルに発揮され、前述のサントラのほかにもガトーらしいアルゼンチン・フォルクローレに根ざしたアルバムを多数発表している。
このライブは1971年に開かれたスイス・モントルー・ジャズ・フェスティバルで‘フライング・ダッチマンの夕べ’と題したデモンストレーションでライブ・レコーディングされたもので、フライングダッチマンでの彼の3作目のアルバムにあたる。メンバーはガトー・バルビエリ (ts)、ロニー・リストン・スミス (p)、チャック・レイニー(elb)、バーナード・パーディー (ds)、ソニー・モーガン(conga)、NA-NA (per berimbau)という編成で、特にパーディとチャック・レイニーという強力でファンキーなリズム隊がガトーの情熱的な演奏に触発され爆発するプレイが素晴らしい。Fusionでも活躍するメンバーをバックに、ガトーのサックスはいつも以上に執拗に荒れ狂っている。南米のタンゴやフォルクローレといったマイナー調の美しいなメロディを、それを強力にプッシュするリズムに乗せ、時にはアイラーのごとくフリーに、時には猥雑でひたすら官能的に歌うスタイルはまさに中毒性のガトー臭が立ち込めた名演となった。
ガトーが残した演奏には歴史に残るような名演は少ないし、長いジャズ史の中で、これといって新しいことをやったわけでもないが、先鋭的でアヴァンギャルドで多彩なプレイは人気は多くの支持を集め、彼のピエソラのタンゴに匹敵する情緒溢れるラテン・サウンドは日本人のDNAに直接的に訴えかけ、ここ日本では異様にガトーの人気は高かった。ジャズミュージシャンとしては一流にはなれなかったが、パッション溢れる熱いプレイと個性的なスタイルは多くの人の魂を強烈に揺さぶり続けた。
その後、私生活や健康上の問題から90年代は半ば引退状態であったが、1997年に復活を果たし現在に至っている。
John Lennonジョン・レノンの1970年の名作で邦題は"ジョンの魂"。
ビートルズ解散前から既にヨーコ・オノとソロ活動を開始し、実験的なアルバムを数枚リリースしていたが、実質的な第一弾ソロ作は本作ということになる。ビートルズ解散後は4人ともすぐにソロ活動をはじめ、ソロ作をリリースし始めていたが、その中でも最もロックファン、特にビートルズ・ファンに衝撃を与えたのが本作である。
ソロとして出鼻をくじいてしまったポール・マッカートニーに対してこのジョンのソロ作はありのままのジョンの姿を投影したものであり、その辛辣で切実なメッセージは聴くものに重く訴えかける素晴らしいアルバムとなった。
アルバムは一曲目、重い鐘の音色に続くジョンの"Mother"という叫びから始まる。ジョンは幼い頃に母親と別れており、それ以降の母に対するコンプレックスをこの歌で包み隠さずに赤裸々に歌っている。ビートルズ時代にもこういったメッセージ性のある曲は書いてきたが、"Help"に代表されるように必ずビートルズというポップなフィルターを通しており、ここまでストレートに自分自身のパーソナルな内容を歌った曲はなかった。
また"Love"では男女間の恋愛というポップミュージックにおける歌詞のクリシェとも呼べる題材を超え、簡潔な言葉で愛とは何かという普遍的で哲学的な思いを歌にしている。またこの歌詞についてはヨーコの影響で日本の短歌や俳句といった古典的な文化からの影響も如実に表れている。歌詞だけではなくメロディーも清楚で、抑揚のない曲であるが、ジョンの切ない声で歌われるとそこに説得力が生まれ、歌詞はリアリティーを持つ。"Working Class Hero"はジョンのその後の音楽家としての政治運動への傾斜を予感させる曲であり、そう思いながらもまだ行動に移せずにいた自己批判の歌でもある。
そしてこのアルバムのハイライトは"God"。「God is consept」というフレーズから始まるこの曲は非常に概念的な歌であると同時にこれまでのビートルズ神話を脱構築させようとしたジョンの決意表明でもある。後半部分ではただ執拗に「I don't believe ~」というフレーズが繰り返される。ジョンが信じないと宣言したのは、神、魔術、神話、キリスト、マハリシ、プレスリー、ボブディラン、そして解散したばかりのビートルズである。この時期のジョンはベッドインなどのイベントを通して今まで語られることのなかったビートルズの裏話を詳細に暴露している。ビートルズの という作曲クレジットが実は二人の共同作業ではなく、実はどちらか一方が書いてきた曲であることもジョン本人の口から明かされた。現在、ビートルズのアルバムの解説にはその曲がジョンの曲か、ポールの曲かが詳細に書かれているが、その情報のほとんどはこの時期にジョンによって語られたものである。その内容はファンにとっては興味深い事実でもあり、解散してもビートルズというバンドを愛し続けるファンにとっては非常にショッキングな事実であった。いつまでもビートルズの夢を追い続ける音楽シーンやファンに対して、ジョンは自分で作ってきたビートルズ神話を自ら崩すことで、意識的にヨーコとの新しい道を切り開こうとしたのである。この歌は、結局信じられるのは今の自分とヨーコだけというフレーズで閉められる。アルバムジャケットは、ヨーコに抱かれながらジョンが木の下で眠っている平和な光景であり、他者にとってはヘビーに響く曲ばかりのアルバムではあるが、彼自身は自らを裸にすることにより、彼の心はこのジャケットのように穏やかであったのだろう。
ミュージシャンには音楽をあくまで作品としてクールに扱い、自分自身と作品とは一定の距離を保とうとするタイプと、執拗に自らの姿を作品に反映させていくタイプの2つに分かれるが、ジョン・レノンはまさしく後者のタイプである。自分自身の中にあるエレメンツの中でも特に弱さやずるさや卑怯さ、といった負の部分を曝け出すことに何の躊躇もせず、自身の作品に投影させている。
例えば、モーツアルトの作品からは彼自身の荒んだ私生活や情緒不安定な精神状態はまったく見えてこない。モーツアルトは自分の調子や状態の如何に関わらず、どんなときでも一定のクオリティを保ち、多くの名曲を書くことが出来た故に彼の音楽は普遍性と汎用性を持ち、芸術に成りえた。ロックの名作の中にも芸術と呼ばれるアルバムが複数あるが、ロックというものが音楽的にアーティストのその時々の極めてパーソナルな内省的な思考や精神状態に左右されてしまう音楽であるという点で、いつまでも愛されるアルバムを残しても芸術としての普遍性とは異質なものであり芸術にはなりえない。またそれがロックの醍醐味ともいえるだろう。ジョンの音楽は彼自身の分身であり、彼にしか表現できない音楽でもあり、最もはかなく美しい音楽であった。
その後約10年に渡る彼のソロ活動は周知のとおりで、このアルバムの後は活動の拠点をニュー・ヨークに移し政治運動へと傾斜していく。彼の想像した理想的な社会はいまだに訪れず、むしろ世界の情勢はこの当時と全くなにも変わってはいないし、今後も残念ながら彼が夢想した世界が実現されることはないだろう。世界情勢も好転しないが、それ故に皮肉にも彼のメッセージや音楽も永遠に輝きを失うことはない。
今日2005年12月8日は、ジョンが彼自身が最も嫌った暴力(凶弾)によって命を失ってからちょうど25年目にあたる。
Chuck Brownチャック・ブラウン率いるSoul Seachersの1986年の地元ワシントンDCでのライブを収録したライブ盤。
80年代後期から90年代のブラック・ミュージックシーンを語る上で外せない"Godfather of GO GO"の異名を持つチャック・ブラウンではあるが、その活動歴は60年代まで遡る。"GO-GO"と呼ばれるハネた思いビートにチョッパーベースという特徴的なリズムで同じくワシントンDCのトラブル・ファンクらとともに一世を風靡したとは言わないまでもブラックミュージックの中で一定の人気を獲得した。ブルースやジャズからの影響を随所に散りばめたその強烈なグルーブサウンドの特徴はこの"It Don't Mean A Thing (If It Don't Have The Go Go Swing)"という曲とともに始まるライブ盤を聴くと明快で、GO-GOとはこうあるべきだという教科書的なアルバムともいえる。特にスティービーの"Boogie On Raggae Woman"(クレジットは"Boogie On GO-GO Woman")やスライの"Family Affair"、デューク・エリントンのTake The A-Train"(クレジットは"Take The GO-GO Train")のGO-GO化させたヒップなアレンジは完成度が高い。
"GO-GO"自体は1978年にトラブル・ファンクが結成されたのが始まりといわれており、トラブル・ファンクのメンバーたち来日時のインタビューで77年頃に自分達がGO-GOを始めた公言している。実際に70年代のトラブル・ファンクのライブ盤では既にGO-GOのスタイルが完全に出来上がっている。しかし、このチャック・ブラウンはさらに1966年に最初のGO-GOバンドを組み、ワシントンDCでは70年代始めにはGO-GOシーンが出来上がったと公言しており、実際にこの当時のチャックのアルバムには既にGO-GOの要素がかなり感じられる曲もあるが、GO-GOというスタイルが出来上がっていたとは言いがたい。結局、誰が始めたかというのはハッキリしないが、このチャック・ブラウンがGO-GOというスタイルではファンクのJBやジョージ・クリントンのようにGO-GOというスタイルでは唯一無二の支持を集めているのは事実である。そしてこのGO-GOは、かつてジョージ・クリントンが"chocolate City"と表現したワシントンDCの隠れたブラックパワーによって生み出されたスタイルゆえに、極めて地元ワシントンDCとの地域的な結びつきが強く、GO-GOの人気は結果的に極致的な人気に留まってしまった。
現在この"GO-GO"という音楽はブラック・ミュージックの中では取り分け特別視されることもなく、ポピュラーな存在となり他のあまたの音楽に取り込まれている。そのためあえて、特定の音楽を指す言葉としては使われなくなってしまっているが、HopHopを包括しその後の90年代の様々なグルーブミュージックに多大な影響を与えた。
なお、このSoul Seachersのドラマーであったリッキー・ウェルマンは、当時ポップにエレクトリック化していくマイルス・デイビスのバンドに引き抜かれた。彼のパワフルでタイトなリズムは、所詮ジャズドラマーのためついていけなくなったアル・フォスターの後任として帝王の死まで最期のドラマーとしてリズムを支えた。
Lounge LizardsThe Lounge Lizardsの1981年の1stアルバム。
ラウンジ・リザーズは映画俳優としても有名だったサックスのジョン・ルーリーを中心に、1981年に結成された異色のジャズバンドで、全曲が3~4分程度の短い曲で、その個性的で音響的なサウンドはフェイク・ジャズ・バンドとも呼ばれた。メンバーはジョンの兄であるエヴァン・ルーリー(P)、スティーブ・ピッコロ(ベース) の3人がオリジナルメンバーで、このデビューアルバムでは当時のニューヨークのノイズ音響派アーティストのアート・リンゼイとロック畑のアントン・フィアが加わっている。
サウンド的にはジョン・ルーリーとエヴァン・ルーリー、スティーブ・ピッコロの3人によるジャズやブルース等のオーソドックスなスタイルがラウンジリザーズの原型であり、そこにアントン・フィアとアート・リンゼイが加わりアヴァンギャルドな方向へ導き、 セッションを通じてこのフェイク・ジャズという音楽性が確立されていった。
70年代後期のパンクムーブメントやフリージャズムーヴメントも衰退し、徐々にポスト・フリーの動きは分裂していく中で、ニューヨークではアート・リンゼイをはじめとする先鋭的な一派がパンク・ムーヴメントを取り込んでいく。そういったシーンの激動のなかで、このラウンジリザーズは自らのジャズを極めてシニアトリカルに"フェイクジャズ"と名づけたのである。この兄弟たちはおそらくビバップやバークレー理論などのジャズ的な素養に乏しく、決してテクニックのあるバンドではないが、テクニックがないからこそ持ち続けられた純粋で独特な音楽センスを、リズムのずれたドラムにノイジーなギターというアート・リンゼイらの新しい音楽に触発され吸収しながら質の高いハイブリッドな音楽を作り上げている。
なにかとアートリンゼイのノイジーなギターばかりが話題になったアルバムではあるが、独特の緊張感に支配されながらもバンドとしてのアンサンブルのバランスも絶妙に取れている。アンビエントとジャズという相反する2面性を融合させ、憂鬱でありながらも挑発的という不思議なサウンドであり、個性の強いメンバーが集まり、それぞれが何に縛られるわけでもなく自由に演奏するというラウンジ・リザーズのスタイルは実はフェイクなどではなく本当のジャズバンドの姿だったとも言える。メンバーも流動的でセッションバンド的な活動が中心のバンドだったこのバンドが、このような統一感のあるアルバムを作ることができたのはプロデューサーであるテオ・マセロの功績も大きい。
Doobie Brothersドゥービー・ブラザーズの1973年の3枚目のアルバム。
LAのイーグルスに対してサンフランシスコのバンドとして当時のウェストコーストサウンドの代表的なバンドであるドゥービー・ブラザーズの名作。活動期間13年間の間に何回もメンバーチェンジを行っており、大きく分けてトム・ジョンストン時代とSteely Danからのメンバー流入後のマイケル・マクドナルド時代に分けられる。このアルバムは前半のトム・ジョンストン時代の代表作であり、ドゥービー・ブラザーズの代表曲を多く収録した人気の高いアルバムである。
ドゥービー・ブラザーズは1970年に結成され翌年デビュー、1972年の"Listen To The Music"のヒットで一躍人気バンドとなる。結成時からメンバーは流動的で、このアルバム当時はトム・ジョンストン(Vo,G)、パット・シモンズ(G,Vo)、ジョン・ハートマン(ds)、マイケル・ホザックス(ds)、タイラン・ポーター(B,Vo)にリトルフィートの名キーボーディスト、ビル・ペインを加えている。
このトム・ジョンストン時代のサウンドの特徴はなんといってもこのアルバムに収録の"Long Train Runnin'"や"Chaina Groove"に代表されるとおり、シャープでドライブ感溢れるギターにジョンストンのまさにウエストコーストを象徴するかのような野太く男臭い豪快なボーカルである。ドゥービーはこのソウルフルかつポップな曲の良さと歯切れの良く爽快でドライブ感のある演奏で西海岸を超えて世界中の多くのファンを魅了した。ジョンストンがソウル系のギターを演奏するのに対し、シモンズはよりフォーキーでアメリカンミュージックのルーツに根ざしたプレイが印象的で、ギタリスト二人の絶妙なアンサンブルもこの頃のドゥービーサウンドの要であった。なにかとジョンストのギタープレイに比べて控えめであるがシモンズも"South City Midnight Lady"などで隠れた好演を残している。
このアルバムの翌年にはSteely Danの初期メンバーであったギタリスト、ジェフ・バクスターを加え、バンドのサウンドはさらに多彩に発展していく。そして病気を理由に脱退したジョンストンの代りに、バクスターと同じくSteely Danからメインボーカリストとしてマイケル・マクドナルドを迎え、ドゥービーのサウンドは一転してAOR色が強くなっていった。
マイケル・マクドナルド時代も"Minutes By Minutes"という世界的な大ヒットが生まれ、その洗練されたサウンドは素晴らしいものであったが、やはりウエストコーストロックをシンボライズしたドゥービーがドゥービーらしかった頃というと、やはりジョンストン時代ということになるだろう。その後、"Long Train Runnin'"がバナナラマなどクラブ世代からの支持を受けてリヴァイバルヒットが起こり、ドゥービーの実力に対する再評価の熱が高まった。そして1989年から現在に至るまでドゥービー・ブラザーズはこのアルバムのメンバーで活動を続けている。